2016年4月24日日曜日

人参方町内会総会・講演会!!

4月24日(日)10:00~11:40まで人参方町内会総会が

灘町の白潟ハウスで開催され出席してきました。

今年は、総会のの議長をすることにもなっていました。

約40分ほどで総会は予定通り終了。

そして今年は、会場の白潟ハウス「江友」社長、

伊藤孝一氏を講師に「白潟にまつわる話」と言う演題で

1時間の講演を頂きました。

 
 

伊藤社長は、白潟歴史まち歩き楽会でもご一緒していましたし

松江や白潟の歴史を写真データで保存され、その知識も

大変なものであることは承知していました。

この日は、その専門分野についてパワーポイントを

駆使して講演頂きました。


 
 

「白潟にまつわるお話」で

1、人参方の歴史

2、明治から昭和時代の天神橋付近の川幅の変化

3、和多見川および貯木場の存在

の3項目について


 

先ずは、江戸時代の初めの頃の地図です。

白潟でも天神町や白潟本町辺りが町で

北寺町、万代町、昭和町辺りは沼地であった。


 

お寺や和多見などの排水や雨水のための小さな川が

和多見川に流れていた。

しかも水運が運送の主力であったため現在のJRの高架の

下は運河であったようです。

やがて陸上交通の時代になり、埋め立てられたようです。


 

そして人参方と言われる朝鮮ニンジンの集積地が役所として出来た。

1810年頃の話のようです。


 

この絵の部分が現在の当店(仏壇の原田・松江店)の

場所だったようです。


 

そして天神川沿いに人参方の中央部分(現在のクランクの

突き当り駐車場)当たりのようです。


 

更に西へ移動した写真です。

何となく石垣やその他で雰囲気が伝わります。

 

 

左の橋が当時の天神橋(第13代)で当時は、この写真のように

太鼓橋で明治20年頃までこの形だったようです。

そして正面の建物が現在も残る人参方の門だそうです。


 

そして、現在の竪町の天神橋寄りの建物。

上が現在も存在する高麗さんのお店。

そして下の写真が向かいの中島呉服店。

現在は、「巴の蔵」と言う料理屋さんです。


 

当時の天神橋の上から作橋方向を見た所。

天神川の川幅が広いです。

現在の倍くらいあったようです。


 

現在の中電の変電所がある所には当時、「永楽屋」といわれる

写真のような立派な演劇場があったようです。

凄いですよね~~~江戸時代から明治の世までこんな

大きな建物が立っていた訳です。

私が松江に来た昭和50年当時は、すでに廃館になった

映画館がありました。


 

宍道湖から大橋川、天神川への水の流れを表した地図です。

「籠の鼻」と呼ばれる流れの強い所があり干拓しても

すぐ流れてしまったようです。

土木技術も浅い中で干拓をして行くのは大変な

困難を極めたことが推察されます。


 

昭和22年に米軍が空撮した写真です。

埋め立てはしてありますが、天神橋は

今より水分長かったようです。


 

赤い点線が現在の天神川の幅です。


 

明治42年に出来た山陰本線です。


 

竪町側から見た天神橋です。

誓願寺の本堂や左の柱の奥には、ガス灯が見えます。


 

この写真は、現在の新大橋の南詰めから和多見川と

売布神社の方を見たものです。


 

人参方の門です。

この門を復元した建物が八束町の由志園に建築されています。

人参方の通りには、現在この屋根部分だけが残っています。


 

最期には、今NHKの大河ドラマ「真田丸」の関係の地図

などが松江に存在し、松江歴史館に保存されているが

何故、こうした資料があるのか?

大阪冬の陣での松平直政と真田家の戦いのの戦利品として

持ち帰ったものでないかと思われる!!

との推論で終了となりました。

誠に有意義な町内会総会でありました。

 

 

 
 

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